紙の本と電子書籍
みなさんこんにちは。
先月のこちらの記事に江國香織さんが好きということを書きました。
すると驚いたことに、その数日後にモスクワで江國さんにお会いする機会に恵まれました。
お会いしたイベントについては上記のブログを読んでいただきたいのですが、
こちらのブログに何回かに分けて、イベントで江國さんがおっしゃっていたことや、
そこからわたしが考えたことについて記録しておきたいと思います。
このイベントには江國さんと、江國さんと長年共にお仕事をされている編集者の方がメインスピーカーとして来露されていました。(日露通訳者の方も含めると3人。)
イベントの前半は、編集者の方が江國さんにインタビューするという形式でのトーク、そして後半に来場者から江國さんへの質問タイムが設けられていました。
その後半の質問タイムに、ある方がこんな質問を投げかけました。
「電子書籍で江國さんの作品を購入しようと思い探したのだが、見つからなかった。何か考えがあって電子書籍では販売しないことにしているのか?」
江國さんは(正確には覚えていないので、あくまでわたしの記憶による概要ですが)こんな風に回答しました。
「わたしの本は電子書籍にしないようにお願いしています。電子書籍自体は便利なものだと思いますが、『電子書籍で本を読むこと』と、『本という物体を所有すること』は全く異なることだと考えています。」
電子書籍と紙でできた本。
そこに書いてある文章は同じです。
ですから、電子書籍を購入しても、紙の本を買っても、読んで得られるものは同じとも考えられます。
違いはなんでしょうか。
江國さんの『本という物体を所有すること』という言葉から考えてみます。
本にあって、電子書籍にないもの。
・本には表紙がある。
・本には重みがある。
・本には手触りがある。
・本には匂いがある。
電子書籍にも表紙はありますが、それは画面に表示されているデータに過ぎません。
電子書籍にもデバイス自体の重みはありますが、本の重みはありません。
電子書籍で新しい書籍を購入しても手触りは変わりません。
電子書籍には本独特の匂いがありません。
本という物体は、例えば、おもちゃという物体と似ていると考えられます。
子供の時に買ってもらったおもちゃが捨てられないという経験は誰しもあると思います。
おもちゃは、ずっと使っていれば傷みます。遊んでいる最中に壊してしまうこともあります。同時にそこに歴史が刻まれます。そして愛着が生まれます。
一方、電子書籍はデータに過ぎません。
新しい電子書籍を手に入れることは、単にデバイスに保管されたデータ量が増えることに過ぎません。
本をただの知識を得るための「情報伝達ツール」として捉えるのであれば
紙の本と電子書籍に違いはないでしょう。
でも本が「それ以上の何か」であると考える人にとっては、紙なのかデータなのかには非常に大きな差があると考えられます。
電子書籍が便利なことに間違いはありません。
本をどれだけ買ってもスペースを取りません。
厚い(と、もはや言っていいのか分かりませんが)本を買っても持ち運べます。
デジタルなので劣化することもありません。
わたし自身は電子書籍を購入して数ヶ月ですが、この便利なデバイスを手放すことはもうできないだろうなと確信しています。
限られたスペースで快適に過ごすため、できるだけ紙の本は購入したくないとも考えています。
わたしみたいに考える人はこれからどんどん増えていくはずです。
このまま時代が進めば、「一度も本物の本を持ったことがない」という子供がいる時代になるかもしれません。
それ自体が悪いことだとは思いませんが、「モノ」と「データ」の差が分からない人ばっかりの世の中になるのは、少しさみしいな、と思います。
こうやって時代の変化をさみしいと感じることは、年をとるということとほぼ同じ意味なんでしょうか。